江戸時代に入ると、安定した時代を背景に質の高い酒が飲まれるようになります。
江戸では上方、つまり関西方面から樽廻船に乗ってやってくる「下り酒」の評判がとても高く、幕府は物価や消費量を調整するために取引を制限することもあったほどでした。
ちなみに、江戸時代中期頃までは関西地方の酒の中心地は京都・伏見でしたが、江戸への大量出荷が始まると、地の利がある灘(現在の神戸付近)が急激に力をつけ、一大ブランドを形成しました。
それに押されて関西でもシェアを失った伏見の酒蔵が100年ほどで1/3にまで減ってしまったことからも、江戸での消費量のすごさが分かりますね。
やがて時が明治に移ると、酒造りにも近代化の波が押し寄せ、酒造好適米の開発や酵母の培養、微生物学に基づいた安全で品質を保つ酒造の研究などが、政府主導で推し進められていきました。
当時の政府は歳入の実に2割以上を酒税に頼っていたため、これを安定化しさらに増大しようとしたのです。瓶詰めでの販売や、各地での品評会などの交流が始まったのもこの頃でした。
しかし皮肉なことに、重過ぎる税金や政府の欧化政策によるビールなどの洋酒の台頭によって、日本酒の消費量自体はじわりじわりと下がっていくことになります。
そしてこの後、二回の世界大戦という大事件により、酒造りも長い苦難の時代を迎えるのです。