若者の日本酒離れ 印刷する

 日本酒の消費量は、1970年代をピークに40年以上にわたって低下し続けています。

 これは一般的には、「三増酒などの低品質な酒が、まずい、悪い酔いするなどの悪いイメージを植えつけてしまった」「高度成長期の恩恵を受けた層が高価な洋酒などへと移り、日本酒を消費しなくなった」ことなどが原因といわれてきました。
 もちろんそれも大きかったのでしょうが、本当にそれだけでしょうか。
 消費量の低迷は業界全体の大きな悩みであり、蔵や地域の垣根を越えて、全国の蔵元酒販店、日本酒ファンである一般消費者までもが様々な取り組みを行ってきたはずです。
 事実、一定の年代以降については「日本酒は悪酔いするお酒」という間違った認識は、ほぼ払拭されているようです。
 しかし、三増酒が造られなくなり、級別制度が廃止されて良質なお酒が手軽に買えるようになっても、状況は改善しませんでした。
 他の酒類へと奪われたはずのシェアは、いつのまにかアルコール飲料消費量全体の減少という形で消えてしまっています。
 なぜでしょうか。

 これは、「日本酒の味やイメージによる忌避」よりももっと前、そもそも「日本酒を飲むという体験・文化自体が継承されなかった」からだとは考えられないでしょうか。

 かつて、複数の世帯が固まって生活する拡大家族が多かったころ、人々が最初にアルコール飲料に接するのは家庭の食卓だったはずです。
 そこでは、すでに自分自身のお酒の嗜好や飲み方を確立した大人たちが、ある程度決まった銘柄・種類のアルコール飲料(ほとんどの場合、地元の日本酒)を飲んでいて、子供がお酒を飲める年齢になったとき、まずはそのテンプレートを継承します。
 口にどうやって含むのか、どう味わうのか、どんな料理と合わせて楽しむのか、どれくらい飲むと酔っ払うのか。
 おそらく最初はジュースなどと比べておいしいとは思えないその液体を、どうやったら好きになれるのか、飲み方のレクチャーもあるはずです。
 その後、アルコールをおいしいと感じるようになり、味の違いを意識するようになり、やがて(他の酒類も含めて)自分の好みを探すようになるまで、「家族の飲む酒」に親しむことになったでしょう。
 しかし、人口の増加や都市開発により、家族の形の主流が拡大家族から単一家庭単位の核家族へと移り変わり、大学や専門学校への進学が一般的になってくると、お酒とのファーストコンタクトの場は家庭ではなく社会の中へと移ります。

 そこでは「これを飲めばいい」というテンプレートはなく、自然とまだアルコールの味や刺激に慣れていない若者が少しでも飲みやすいもの、つまり甘かったり低アルコールなもの(サワーやチューハイ、ビールなど)が選ばれます。
 そして重要な点として、これらは水やジュースのように「ごくごくと」喉に流し込む飲み物なのです。
 やがて彼らがアルコールに慣れ、選択の幅が広がる頃には、「お酒はごくごく飲むもの」という習慣が出来上がってしまっているため、「少しずつ口に含んで飲むもの」である日本酒はアルコール度数が高くて飲みづらく、(ジュースなどを基準として考えると)味が複雑すぎておいしいと思えなくなっているのではないでしょうか。

 アルコール全般について消費量が落ちている背景には、インターネットの普及による価値観の多様化、所属するグループの選び方の変化、それに社会的な常識の移り変わりが上げられます。
 本来、日本人を含むモンゴロイドのうち約半数は、アルコールの分解能力が低いか、まったくない人々です。
 これらの人々は、アルコールを摂取するとすぐに酔っ払ってしまうか具合が悪くなってしまうため、自主的に継続的な飲酒をするグループではありません。
 ところが、少し前まで社会人は「酒席に参加し、お酒を飲むのが当然」とされ、多少無理をしてでもアルコール飲料を飲まなければなりませんでした。

 近年、アルコール分解能力について個人差があることが一般的にも知られるようになり、「飲めない人に無理に飲ませるべきではない」「酒席への出席は強要されるべきではない」という考えが(完全ではないにせよ、以前に比べると)広まってきたため、無理をして飲んでいた層の人々が飲まなくなった、つまり不当に底上げされていた需要が、本来あるべき水準に戻りつつあると考えられます。
 また、ネット上でSNSなどを使用した交流が盛んになり、「友人・知人とのコミュニケーションのツール」としてお酒が必要ではなくなりつつあることも、重要な原因といえるでしょう。