日本酒の登場する逸話 印刷する

 神話や伝承の中に登場する日本酒がらみのお話もなかなかインパクトがありますが、じつは現実の世界だって負けてはいません。
 神様や妖怪が魅了される日本酒は、歴史上の偉人たちをもとりこにします。
 してやったりの大成功から色々台無しになる大失敗まで。
 歴史に残る、お酒にまつわる史実の中から、いくつかをご紹介します。

母里友信、福島正則(黒田節)


 「酒は呑め呑め 呑むならば…」の歌いだしで有名な黒田節。
 歌いだしだけが有名で、歌詞の詳しい全内容を知っている方は少ないのではないでしょうか。
 実はこの歌、お酒の絡んだある事件を基にしているのです。

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 1596年、黒田家の家臣・母里友信は、使者として福島正則の元を訪れます。
 その日、正則の屋敷では朝から宴の真っ最中。用事を終えて帰ろうとする友信も、宴席に加わらされます。
 実は友信は大のお酒好き。でも、主人である黒田長政から「失礼があってはいけないので先方で酒を飲んではいけない」と釘を刺されていたため、酒は断っていました。(どうも酒癖が悪かったようです)
 酔っ払った正則に再三勧められても固辞していた友信ですが、「この大杯を干せたら望むものを何でも与えよう」「こうまで言っても呑めないとは、黒田家の家臣は腰抜けばかりだ」などと挑発され、「そうまでおっしゃるならば」と大杯を手に取りぐぐーっと一気に飲み干します。
 そして、「何でも」という言葉を受け、当時正則が所有していた名槍「日本号」を所望しました。

 日本号は足利義昭、織田信長の手を経て、豊臣秀吉から下賜された由緒正しい槍。
 慌てる正則ですが、友信に「武士に二言はありますまい」と言われ、しぶしぶ日本号を与えます。
 こうして友信は「大杯の酒を飲みつくし、日本一の槍までも呑み取った」のです。

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 我が強い黒田武士のなかでも、かなり個性的なエピソードが残る母里友信。
 主人がわざわざ気を回して「酒禁止」と言いつけていたものを、いらぬ挑発までして飲ませてしまった福島正則の「酒の上での大失敗」ですね。
 ちなみに、正則も別に酒宴の席だからたまたま酩酊していた、というわけではなく、一説には酒を手放すことが一時もなかった、と言われているほどの酒好きだったそうです。
 このあと、さすがに懲りてお酒が減ったでしょうか、それとも逆にやけ酒で酒量が増えたでしょうか…?

上杉謙信


 生涯独身を貫き、武田信玄に塩を贈るなどのエピソードから「禁欲の人生を送った人格者」のイメージで見られがちな上杉謙信ですが、実はかなりのお酒好きだったと言われています。
 現在残っている彼の使用したとされるは、直径12cmほどにもなる大きなものや、行軍中に使用する「馬上杯」と言われるものなどで、嗜むなどという程度ではなく好んでお酒を飲んでいたことが伺えます。
 とはいえ、他の戦国武将にありがちな豪快な大酒呑みというわけではなく、また豪華な宴を催すというわけでもなく、呑むときには塩や梅干だけをに、一人静かに縁側で盃を傾けるのを好んだとのこと。
 彼のイメージに似つかわしいなんともクールでかっこいい逸話ですが、謙信の死因(高血圧性の血管・心疾患)も合わせて考えると、健康的な呑み方ではなかったのも確かなようです。

 最後に、お酒の登場する謙信の辞世の句をご紹介しましょう。
 「四十九年 一睡夢 一期栄華 一杯酒」(49年(の生涯)は一睡の夢 栄えた人生も一杯の酒)
 …うーん、やっぱりちょっとカッコいいですよね。

本多忠朝


 さて、お次はお酒好きにはちょっと怖い(?)、「酒封じの神」として知られる本多忠朝について。

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 忠朝は戦国最強と名高い本多忠勝の子で、父親と同じように勇猛な武将として名を馳せました。
 また人格面でもすぐれた人だったようで、父の遺産を兄と分けるときも、自分は身を引いて兄に多くを譲り、徳川家康に感心されたほどでした。
 しかし、大のお酒好きだったことが彼の人生を大きく狂わせてしまいます。
 1614年、大阪冬の陣の際にも忠朝は大活躍していましたが、お酒を飲んでいたことが原因で不覚を取り、結果敗退、家康にも「父に似ず使えぬ奴」とお咎めを受けます。

 そして、この汚名を返上しようと臨んだ1615年の大阪夏の陣、焦りからか兵を進めすぎ、鉄砲隊の反撃で崩れた陣を持ち直そうと奮闘する中、鉄砲の弾に当たって馬から落ち討ち死にしてしまいました。
 よほど悔しかったのでしょう、死に際に「我が墓に詣でるものは、必ず酒嫌いとなるべし」と言い残したとされ、以後「酒封じの神」と呼ばれるようになったのです。

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 もともとお酒好きだったのに、あまりの大失敗から死後は酒封じの神となってしまった忠朝。
 まるで神話や昔話にありそうな顛末ですが、本当にあった話だというところがお酒の怖さを物語っています。
 現在、大阪天王寺の一心寺にある彼の墓には、多くの禁酒したい人々が願掛けに訪れているとのことなので、第二・第三の忠朝を生み出さないために酒封じの神として奮闘しているかもしれません。
 万一、何かの理由で禁酒せねばならなくなったときは、頼りに行ってみてはいかがでしょうか。

千住の呑み比べ大会(江戸時代


 戦国時代も終わりを告げ、江戸時代も中期を過ぎる頃になると、日本酒造りの技術や生産量も飛躍的に向上し、一般の人々も気軽にお酒を飲むようになります。
 そして、そんな背景が生み出した一つの流行が「呑み比べ」です。
 現代では当たり前すぎて意識されることはほとんどありませんが、
 ・「自分」「相手」だけでなく、人間の平均的な飲酒量が周知されている。
 ・お酒が一般庶民にも比較的手軽な値段で、しかも大量に手に入る。
 ・神事や冠婚葬祭以外の催し物で大量のお酒を消費してもとがめられない。
 などの条件がそろわないと、呑み比べというのは成立しません。

 ましてや、数人での飲み比べではなく大勢で行う呑み比べ大会ともなれば、経済的・心理的な(個人と社会両面の)余裕が必要で、江戸時代の長く続いた平和がその条件を満たしたからこそ開催されるようになったといえます。
 記録に残っているだけでも、各地でさまざまな呑み比べが行われていたようですが、特に有名なのが1815年の「千住の酒合戦」です。
 これは町内に住む飛脚問屋・中屋六右衛門の還暦祝いとして行われた呑み比べ大会で、身分や年齢にかかわらず幅広い参加者が集まった大きな大会になりました。
 基本的にはもっとも多く飲んだ人が優勝という簡単なルールですが、参加者を二組に分けてひとりずつ対戦していったり、五合から三升(!)まで六段階の大きさのを用意して駆け引きの要素をもたせたりと、いろいろと趣向を凝らした大会だったことが伺えます。
 三升の杯とか、どう考えても干せるサイズではないように思えますが、記録を見ると少なくない人々がそれ以上の量を呑んでいることがわかります。
 実は、この頃のお酒は今に比べてずっと甘みと雑味が多く、みりんのような風味でした。
 そのまま飲んでも飲み辛いため、薄めて飲まれる(というより、売られている時点ですでに薄められている)のが一般的で、平均アルコール度数は4~5度程度だったようです。
 なるほど、それなら三升飲んでも今で言う一升前後…いえいえ、それでも十分大量ですね。

 結局今よりもお酒に強い人が多かったのか、お祝いの催しということで張り切った人が多かったのか、薄められていることを差し引いてもびっくりするような記録が続出。
 最終的には、6升以上を呑んで「まだまだ呑めるけど、明日早発ちなのでこのへんで…」と帰っていった、旅行者の河田何某という人の優勝で幕を閉じました。
 (家に帰ってから呑み直した量まで含めると、7升半が最多記録でした)
 このときには死者が出たというような記録はないようですが、泥酔して暴れたり二日以上昏睡していた、なんて人もいたようですし、そもそもたくさん呑んだからといって偉いわけではありません。
 薄まっていないお酒を呑める現代人は無理に張り合おうなどとはせず、自分のペースで呑むことを心がけましょうね。

新撰組(芹沢鴨、土方歳三)


 幕末から明治時代初期にかけて、激動の時代に翻弄されるように生きた新撰組。
 その生き様や思想はたくさんの書物やドラマ、映画、ゲームなどの題材とされ、いまでも人々の心の中に強く焼きついています。
 若くて血気盛んな隊士が多かったことからお酒がらみのエピソードも多い新撰組ですが、その中でも対照的な二つをご紹介しましょう。

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 一つ目は、新撰組初代筆頭局長・芹沢鴨に関するものです。
 「新撰組局長」というと、一般的にはこのあと局長となる近藤勇のほうが有名で、芹沢は影が薄いと言えるかもしれません。
 近藤、新見錦とともに「壬生浪士」時代から隊を育て上げた功労者ではありますが、道を譲らなかった力士と諍いを起こして一人を死に至らしめたり、気に入りの芸子にふられて激昂し髪を切らせるなど、基本的に短気で粗暴な人柄だったようです。
 特に酒が入ったときの暴れっぷりはひどく、和解のための宴席で大暴れするなどかなり面倒な酒乱でもありました。

 最期は1863年9月、目に余る乱暴狼藉をかばいきれなくなっていた藩の指示もあり、近藤をはじめとする他の隊士によって暗殺。
 新撰組の局長として隊士たちをまとめていた以上、芹沢自身も相当な腕の持ち主であったはずですが、当日は馴染みの芸子たちと宴会をしたあとで泥酔しており、寝込みを襲われたとはいえ剣を取ることもできず殺されてしまったようです。

 一説では、この宴会自体も暗殺計画の一部とされており、酒におぼれる性格を利用された最期だったとも言えます。

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 芹沢が退場した後、変わって局長となったのが近藤勇、そして彼を支える副長が土方歳三です。
 新撰組の前身である浪士組に入隊する以前から近藤と行動を共にしていた土方は、この時点で28歳とは思えないほどの冷静さで近藤を補佐し、新撰組が名声を高めた影の功労者でした。
 一方で隊内の規律を厳守させることに心血を注ぎ、背いたものは誰であろうと切腹させ、逃げようとするなら斬殺して見せしめにするなどしたため、「鬼の副長」と恐れられてもいたようです。

 土方の尽力から新撰組の評価が高まり、功績が認められようやく幕臣として取り立てられた直後、大政奉還により突如幕府が崩壊。
 近藤が処刑されて以降は、戊辰戦争を戦いながら北上を続け、最終的に北海道の函館にたどりつき、旧幕府海軍・榎本武揚らとともに「蝦夷共和国」を設立。
 進軍してくる新政府軍との徹底抗戦に突入していきました。

 そんな新政府軍との厳しい戦いの中、士気を高めるため、土方自ら部下たちに酒を振舞ったというエピソードがあります。
 土方は緊張し疲弊する部下たち一人ひとりに酒をついでまわり、「酔って軍規を乱しては困るから、一杯だけだ」と笑ったそうです。

 もともと敗色の濃厚な防戦の中、疲れきって迷いが生じていたはずの兵達の心を、たった一杯の酒で解きほぐしまとめなおした土方軍は、その後味方の苦戦で撤退するまで連勝を重ねました。

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仲間の信頼を失い、酒によって命までも失った芹沢鴨。
 厳しくも信念を持って戦い、酒で部下の心をつかんだ土方歳三。
 鮮やかな対比となる、新撰組でのお酒にちなんだ二つのエピソードと言えるでしょう。